2012/03
近代水道の父 パーマー君川 治


[我が国近代化に貢献した外国人15]


野毛山公園にパーマーを訪ねる
 横浜の野毛山公園に行ってみた。桜木町駅からきつい坂道を登って小高い丘の上に緑豊かな公園がある。横浜は大正12年の関東大震災で多くの施設や建物が被害を受け、ここの浄水場も破壊されてしまった。その後配水池が設けられて今も現役で活用されている。
 公園の中には近代水道の父と称えられているパーマーの胸像があり、近代水道発祥の地記念碑には「…いつでもどこでも安全で良い水が欲しいという人々の夢はこの近代水道の完成によって実現された…」と記されている。当時使用された鉄管も桜木町駅近くに展示されている。

江戸と明治の上水工事
 江戸の上水は徳川幕府の指示により、神田上水も玉川上水も短期間に工事を完成させた。ところが明治政府の水道政策を見ると紆余曲折が甚だしく、近代水道として最初に完成した横浜が明治20年、東京の水道は明治31年である。鉄道・通信などの全く新しい技術に対しては即決に近い形で進められているのと比べると違和感が強い。
 江戸の上水は清浄な自然水を、傾斜を利用して自然流下する方式であり、配水路は、石樋、木樋、竹樋などを利用して井戸まで運ぶ。通常、取水地から水路を開削して導水しているので、途中でゴミや汚泥水が混入して水質を悪化させてしまうおそれがある。上水の水質悪化は多くの人から指摘され、横浜などではイギリス公使から水道改善の嘆願書が提出されている。
 東京を例にとって見ると、明治7年に警視庁の奥村陟が水質調査し、「玉川上水の上流には多くの洗濯場があり、代田村の柵には野草・木の枝・犬猫の死骸・塵埃が堆積して毎日2回取り除いており、川沿いの道路より低いところでは降雨による道路の汚水・牛馬犬猫の糞尿が流れ込んでおり、飲み水として問題がある」と報告している。
 これに対して近代水道は浄水場を設置して水を浄化し、配水路に鉄管を使用してポンプで圧力をかけて水道栓まで導水する。
 文部省、工部省、東京府衛生局、内務省などが東大のお雇い外国人教授など専門家に水質調査と水道改良計画を何度も依頼しているが、維新政府は多方面に事業展開しており、金がないので重い腰が上がらない。各地でコレラが発生し、多くの患者が死亡する事態に政府は水道敷設の必要性を理解しながらもこれほど遅れた理由は、水道事業建設費が自治体年間予算の5〜10倍に匹敵するため財政的圧迫が大きかったこと、電気・ガス・交通に比較して水道事業は収益性が乏しいこと、更には民間公益事業で対応したいと甘く考えていたことが指摘されている。


横浜の近代水道
 最初に重い腰を上げたのは横浜であった。神奈川県知事の依頼で水道設計をしたのはイギリス人土木技術者パーマーで、明治16年に現地調査をして計画書を策定・提出した。
 工事は明治18年に着工し、相模川水源から取水して40kmの水路により現在の横浜市西区の野毛山公園まで導水し、ここに浄水場を設けた。配水管には鉄管を使用して明治20年に完成した。この当時は個人の家まで水道を引きこんでいるのは10%以下で、大半は共用栓を使用している。
 ヘンリー・スペンサー・パーマーは英国陸軍大佐の父と英国陸地測量部総監ジェームス卿の妹を母として、父の任地インドのバンガロールで1838年に生まれた。イングランドで少年期を過ごし、陸軍士官学校に入学、卒業後は王立軍事工学専門学校で工兵将校として研修を受け、工兵隊員としてカナダに派遣された。カナダでは5年間測量事務に従事し、帰国後は陸地測量部員として活躍した。
 1869年にシナイ半島調査隊、1874年に金星観測のニュージーランド派遣隊長、1878年より1882年まで香港駐在主任技術官となり、天文・気象・磁気・潮流観測のための総合観象台を設計し、広東水道の設計も行った。
 パーマーは文筆家でもあり、海外派遣の報告書、「シナイ半島調査報告書」「金星観測計画書」「香港観象台計画書」などが高く評価され、日本滞在中は「タイムズ」に日本通信を送っている。表題を見ると日本の政治から社会問題、自然現象まで多岐に亘っているが、いくつか表題を拾ってみると、「日本における地震の研究」、「日本でおきた火山爆発」「日本の温泉(伊香保)」「濃尾大地震」「磐梯山の爆発」「日本の鵜飼」「生花の芸術」など、科学的興味から日本の生活習慣まで多岐にわたっている。
 函館市水道はパーマーに水道調査を依頼し、大阪府はパーマーを招聘して水道計画を立案、東京では渋沢栄一ら財界人がパーマーに設計を依頼して東京水道会社設立申請をするなどの動きがあるが、パーマーは横浜以外の水道工事に直接係ることはなかった。
 パーマーの功績については、「我が国近代水道第一号である横浜水道を調査・設計し、工事を行い完成させた大功労者こそパーマーであり、その優れた技術、施工、経営、管理等は我が国近代水道事業の原型となり、その後の水道事業に多くの影響をもたらした事実からして、英国式水道がパーマーによって導入された歴史的価値は高く評価され続けるであろう」と讃えられている。


公営水道その後
 明治21年に市町村制が施行され、水道事業を原則公営事業と定めた。更に公営水道事業に対する国庫補助金制度を決め、明治23年に水道条例を定めた。
 横浜に次いで近代水道を整備したのは函館(明治22年)、長崎(明治24年)、大阪(明治28年)である。
 近代水道事業に深く関わった人物として、長与専斎、バルトン、中島鋭治がいる。
 長与専斎は幕末、緒方洪庵の適塾で医学を学び、長崎でポンペの指導を受けた大村藩の蘭学医で、維新政府では岩倉具視の視察団に加わって欧米の公衆衛生について学んだ。帰国後は文部省医務局長、内務省衛生局長として水道事業に係わった。この長与は明治20年にイギリス人バルトンを東京帝国大学工科大学衛生工学科教授に招聘し、東京府の水道改良設計を依頼した。実施にあたってドイツ留学中の中島鋭治が急遽呼び戻された。
 中島は仙台の出身で明治13年東京大学土木工学科に入学、卒業後すぐに助教授となり、明治20年より3年間の留学を命じられた。中島は内務省技師、東京府水道技師となって計画案を精査し、浄水場の位置を淀橋として水道工事を着工した。明治27年には日清戦争がはじまり、資材の高騰、労働力の不足、鉄管製造会社の技術不足、納期遅れなど様々な問題が発生し、東京府の水道は明治31年にようやく完成した。計画時の工費は650万円、実際の費用は918万円であった。
 その後、中島鋭治は全国の44の水道事業にかかわったとされ、こちらも「近代水道の父」と呼ばれている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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